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第8話

いま再びの禅、不生禅へ
(H21.01.20開設)

BY 又の名瞑想禅士


 釈尊の教えは出家した人のみ救済するものではありません。
 いま再び、坐・禅の修行から不生禅へ、正しい心のあり方を導きましょう。

1、坐とは
 自分の周囲の環境について、あれこれと心を動かさずに、心を静めることが「坐」です。
 坐という字は、土の上に人と人が座っているところであり、自分の中にいるもう一人の自分が話しかけ、見つめあい、素直になるという意味です。

2、禅とは
 禅の原語、古代インド語「ディヤーナ」を漢字「禅那」に音写ししたもの。瞑想、心を静めるという意味です。
 禅とは「心」の名前であり、「心」は禅の本体です。
 心とは「仏性」「仏心」「仏法」であり、すべてのものをそのものであらしめる根元的な心であり、あらゆるものに宿っている本心・本性です。
 禅とは、自分の心を内外にあるものに揺るがない状態に置くこと、静かに自分の心を見つめることです。
 自分の中にいるもう一人の自分と会話することです。

3、仏性
 外に向かう意識を内に向け、何者の助けも借りずに、自ら明らかに輝いている根本的人間性を自覚して、その光で相手を照り返ことが仏性です。

 釈尊の教えが、自己の悟りをを追求する「小乗仏教」と自分の解脱だけを考えるのではなく、他の人々の救済(他利)に努めなければならないという立場の「大乗仏教」に分かれ、伝わっていきました。
 「大乗仏教」では、この世に生きるもの全て(一切衆生)は、生まれながらに自分の中に仏となる要素(仏性)を宿していると考えています。

 自分の心を見つめ、そこに仏性が宿っていると信じて、動揺しないことが「禅」です。
 この世の全ては固定した実体を持ちません。

4、只管打坐(しかんたざ)
 ただひたすらに座ることです。
 目は閉じません。
 頭の中に浮かぶもの、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、肌で感じるもの、どのようなものも気にかけないで、一切とらわれない、何ものにもとらわれないで、ただただ在ることです。
 これが無心の境地です。
 人生は、一生、修行です。

5、四無量心(しむりょうしん)
 広大な利他心であり、人を救って幸せにする慈悲喜捨(じひきしゃ)の四つのこころです。
・慈無量心 - 無量の楽しみを与える、慈しみの心。
・悲無量心 - 苦しみを除く、憐れみの心。
・喜無量心 - 限りなく喜ぶ、喜びの心。
・捨無量心 - 施しをすることに捕らわれない、平らな心。

 この中で、特に慈と悲の心が大切であり、「慈悲」を普遍的な愛といいます。
 従って、無限の慈悲は、人間だけでなく、生きとし生けるもの全て(一切衆生)の幸せを願う心のことです。

 我が師、釈尊は世の中を次のように考えています。

・一切皆苦 - この世は不完全で、苦しみに満ちた世界である。
・諸行無常 - この世には変わらない永遠はなものはない。
・諸法無我 - どんなものも、変わらぬあり方は保たない。

6、空とは
 不生不滅の法生、即ち不生不滅の真実のことであり、「空」を一つの存在根拠、見解と考えることを否定することです。

 般若心経における「色即是空」は物質的現象「色」はすなわち実体がない「空」と説明しています。

 空でない何者かが存在すれば、空である何者かが存在する。空でない何者も存在しないので、空であるものは存在しない。といった考え方をすると迷ってしまいます。

7、いま再びの禅、不生禅(ふしょうぜん)へ
 坐禅の心構えが出来ましたか。
 自分の中のもう一人の自分が見えましたか。
 いよいよ、これから、不生禅を目指します。

 不生禅とは、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師が説かれた教えです。
 すべての人は、生まれつき不生の仏心を持つのだから、不生の仏心で居よ。
 とだけ説法したので不生禅と呼ばれています。

 不生で居る、すなわち仏心のままで居ることを心に決めて生きることが大切です。
 不生とは始めもなければ終わりもないことであり、不生の仏心を保って(念に囚われずに)日々の暮らしを送ることが未来永劫の活仏です。
 生きられるように生き、死の時が来れば今すぐにでも死ねるように、いつ死んでも大事ないように平生居る人が生死自在の人であり、不生の仏心を決定している人であると盤珪禅師は説いておられます。

8、捨ててこそ、生きる
「不生」は、色即是空、脱落、無位、無我、去私
「仏心」は、空即是色、現成、真人、成仏、則天
 と同義語です。

 捨ててこそ、生きる
 囚われない時、自分のなすべきことができる
 はからいを捨てる時、自然に生かされる
 はからいない時、仏の眼にてある
 はからずして、正しく動かされる。

 盤珪禅師の教えは、すべての人は、生まれつき不生の仏心を持つのだから、仏になろうと努力するよりも、仏のままで居るほうがやさしい、不生の仏心のままで居ればよいということです。

 迷えるあなた達よ、素直な心で、坐・禅を行い、いついかなる時でも不生禅を心懸け、宇宙的真理を見極めましょう。
 そして、あなたの中に光り輝く、未来永劫の活如来(活仏)に光をあて、対話しましょう。


       貴方の迷走禅士より

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