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古代史入門
(H12.7.23開設)

古代の夢は駆け巡る

BY 又の名瞑想禅士


プロローグ

 我々は大宇宙の中の一つである銀河系宇宙に、さらに銀河系の中の太陽系の中に、
 そして太陽系の中にある地球号という名の星に乗船している。

 さらに、我々が存在しているところは、地球の中のアジアの一部である日本という国である。
 そしてこの国の歴史の発祥地、大倭、いにしえの都があった大和、奈良である。

 我々が目にしている景色、風景は古代人が歴史を駆けめぐっていった舞台であった。
 目を閉じれば草木を揺らすそよ風から、あちらこちらに、古代人の息遣いが聞こえてくるのである。

 大和は日本の心の故郷、そしてこの地に生存するものとして、
 先人達の在りし日の輝かしい歴史を発掘、再現し、後世に伝えることが、
 我々に課せられた使命ではないだろうか。 

 ということで、これから古代史入門の基礎知識を学習してみよう。


第1章 古代史基礎知識

1、あなたはこの言葉を覚えるだけで専門家になれる。

代表的なキーワードを以下に示す。


 ①辛亥年(しんがいねん)
 考古学上の世界を揺るがす発見が、埼玉県行田市の稲荷山古墳の鉄剣である。
 稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文「辛亥年」と「獲加多支鹵大王」が考古学上の常識説を覆させた。
 (*解説1)


 ②乙巳の変
 一般的には大化の改新645年(大化元年)のことである。
 専門家としては乙巳
(きのとみ)の変と呼ぶのがふさわしい。
 古事記、日本書紀では、中大兄皇子と中臣鎌臣が蘇我入鹿を倒したクーデターのことをいうが、
記紀が事実を改竄されて編集されているため、間違いを多くの学者より指摘されている。


 *解説1
 年号が制定されるまで干支による年が使用されていた。この干支年が「辛亥年」である。
 干支としては、甲子の年に造られた甲子園が有名である。

 獲加多支鹵大王、意味は若い勇者、ワカタケル、又はワカタキロである。 
 これまでに発見されているのが、熊本県江田船山古墳の大刀で、その銘文は

 「治天下獲□□□鹵大王」である。

 稲荷山鉄剣の銘文が発見されるまで蝮宮(タジヒ)に天下を治しめす瑞歯大王(ミズハ)と読み、
日本書紀に
「タジヒノミズハワケ」と書かれている反正天皇と見るのが一般的であった。

 稲荷山鉄剣の銘文が発見されたため一夜にしてワカタケル=雄略=武とする説が誕生した。
 しかし、この辛亥年が471年という説の他に531年という説も生まれている。

 471年説は獲加多支鹵大王が雄略天皇、531年説は欽明天皇である。
 通説では埼玉県行田市の稲荷山古墳の実年代は、5世紀末~6世紀初めとされている。
 この実年代は、稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれている獲加多支齒大王を雄略(456~79)、
辛亥年を西暦471年とみて割り出したものである。

 一方、獲加多支齒大王を欽明(531~71)とする説もある。
 これは、稲荷山古墳から出土した副葬品から6世紀前半と推定し、辛亥年を西暦531年としている。


2、古代史のツウは専門家を批判することから始める。

 審判がいないので判定が不可能である。専門家の説に対し異論を唱えることにより、
優越感を得ることが出来る。

 専門家にしても様々な説があり、自分に都合の良い、夢の膨らむ古代史を創造することが出来るのである。
 
考察対象例
 ①津田左右吉
 古事記及び日本書記の研究
 ②山片蟠桃
  夢之代
 ③門脇禎二
  木満致渡来説(蘇我満致同一説)
 ④直木孝次郎
  ⑤水野 祐
  ⑥黒岩重吾
  古代史の迷路を歩く

3、古代史の教科書は「記紀」すなわち
 「古事記」「日本書紀」から研究してみよう。

 例えば、日本書記のなかで一番記述が多いのは、大化の改新と壬申の乱で、異常にリアルである。
 このことから事実を隠していることがよく解る。これを解明するのが古代史学である。


 一般的に「古事記」は文学、「日本書記」は歴史書といわれているが、古代史上「古事記」が面白い。
 また「古事記」「日本書記」の矛盾点に古代史の事実が隠されている。
 あなたはいくつまで、この矛盾点に気づくのであろうか。


4、未知の分野がほとんどである。
 古代史の前半は文字がない時代である。
 文字があった時代であっても、文献が少ない。
 文献があっても、食い違っている事が多い。
 文献があっても、捏造されている場合がある。
 文化財遺跡の製作年は幅がある。
 

  ということから幅のある物語が展開できる。

5、古代史に登場する御陵はよく保存されており、またそのスケールは大きい。
 研究を行うにあたって、その対象のスケールが大きい分だけ、満足感、充実感があり、納得できる。
 宮内庁が指定している天皇陵は、事実ではない場合が多い。
 宮内庁指定の天皇陵は発掘が出来ないため、いろいろな仮説をたてられる。

 それ故、あなた自身の古代史を創作することが出来のである。
 天皇陵の推定というジグソ-パズルをあなた自身ではめ込むことが出来るのである。

6、古代史の正しい導入例
  1)卑呼子、または、邪馬台国
  2)壬申の乱、大化の改新
  3)獲加多支鹵大王
  4)神武、崇神天皇
  5)応神、仁徳天皇
  6)蘇我、聖徳太子
  7)日本武尊
  8)天照大神
  9)天孫降臨
 10)継体天皇
 11)スサノオ

 この他に様々なテーマが考えられるが、上記の内のいずれかから研究すれば古代史の深みに陥ることを請け負う。

 素人の私が出る幕ではないが、何しろ古代史妄想という禁断症状が絶え間なく発生している発病状態である故、この古代史講釈をお許し願いたい。

 それでは古代史入門として、基本的事項をこれから勉強してみよう。

第2章 古代史大倭散策

1、敷島の大和
 奈良県は大半が山地であり、海のない県である。西北部に奈良盆地があるが、
その面積は県総面積の約20パーセントにすぎなく、ここに県民の約80~90パーセントが住んでいる。

 この奈良盆地が、日本の心の故郷、かつて日本の政治経済の中心であり、
日本の歴史の発祥の地、「敷島の大和」である。

 奈良盆地の中央に磯城郡という所がある。敷島の大和の名残を今も残している。
 その昔、敷島、大和、朝日というタバコがあった。
 このタバコの名前の由来は敷島の大和からきている。

 「邪馬台国」は「やまたいこく」という。しかし、魏志倭人伝に書かれている日本の地名、
人名は耳から聞こえる音を漢字で当て嵌めているだけであるはずである。
 「邪馬台国」は「やまとこく」と読むのが正しいのではないかと考えられる。

 「敷島の大和」奈良を語るには日本の歴史の成り立ちから説明する必要があろう。

2、日本の歴史の始まり古事記の世界
(神世の時代)
 西暦712年 古事記が太安麻呂により編集されたが、この古事記によれば

 創世の神神として 
 別天つ神(コトアマツ)を初めとする5神と
 国之常立神(クニトコタチノカミ)~伊耶那岐神(イザナギ)、伊耶那美神(イザナミ)の神世七代がいる。
 
 創世の神神の名前を列記すると
 別天つ神(コトアマツ)として天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカムスヒノカミ)
神産巣日神
(カミムスヒノカミ)、宇摩志阿斯(ウマシアシ
訂備比古遅神(カビヒゴヂノカミ)、天之常立神(アメトコナタチノカミ)の5神がいる。

 また国之常立神(クニトコタチノカミ)、豊雲野神(トヨクモノノカミ)、妹須比智巡神(イモスヒヂニノカミ)
角朽神
(ツノグヒノカミ)、妹活朽神(イモイクグイノカミ)、意富斗能地神(オホトノヂノカミ)
妹大斗乃辨神
(イモオオトノベノカミ)、於母陀流神(オモダルノカミ)、妹阿夜訶志古泥神(イモアヤカシコネノカミ)
伊耶那岐神(イザナギ)、伊耶那美神
(イザナミ)を神世七代と呼んでいる。

 ここで神々の物語を一部紹介しよう。
 5柱の神は、伊耶那岐神、伊耶那美神に天の沼矛を与え、国造りを命じた。
 ところが、伊耶那美神は火乃加具土神(ヒノカグツチノカミ)を産んだときやけどをして死んでしまった。
 嘆き悲しんだ伊耶那岐神は妻である伊耶那美神に一目会いたさに黄泉の国へ行った。

 しかし、そこには変わり果てた醜い姿の伊耶那美神であった。
 その姿に驚いた伊耶那岐神は慌てて逃げ出したのである。
 黄泉の国から命からがら帰って来た伊耶那岐神は汚れを落とすため、
海の水で身を洗い清めるのである。
 いわゆる
禊ぎである。

(天照大神)
 ここから日本人の神の元締めが誕生する。
 伊耶那岐神が左目を洗うと天照大御神(アマテラスオオミノカミ)が生まれる。
 さらに、右目を洗うと月読命(ツキヨミノミコト)が、鼻を洗うと須佐之男命(スサノオノミコト)が誕生する。
 そして、天照大御神は神々から高天が原の支配を任され、月読命は夜の国を、
須佐之男命は海原の支配を任される。

 そして最終的に神々は、高天原を中心にして葦原中国をも治めるのである。
 いわゆる神々が地上から降りてくる天孫降臨から、
天皇家の皇祖神天照大御神の孫である
ニニギノミコトが葦原中国を征服する物語が展開される。

 一方、天照大御神の弟である須佐之男命は非常に荒々しい気性の神様で、
高天が原で田を荒らしたり、溝を埋めたり、神殿に大小便を撒き散らしたり様々な乱暴を働く。

 最初は姉として、乱暴な弟神、須佐之男を庇っていたが、
度重なる出来事についに愛想が尽きはて、天照大御神は天の石戸を開き、
中に入って閉じこもってしまった。
 これがかの有名な天の岩戸事件
(*解説2)である。

 太陽の神である天照大御神が隠れてしまったのだから、高天が原(*解説3)も、
地の葦原中国
(当時の日本の名前*解説4)も、世の中全てが真っ暗になってしまった。
 困った八百万の神神は天安河の河原に集まって会議を開いた。
 そこで天照大御神を天の岩戸から引っぱり出す作戦を実行した。

 まず常世(とこよ)の長鳴鳥を集めて鳴かせた。

 次に天宇受売命
(あめのうずめのみこと)が踊り(*解説5)始めた。
 そうこうするうちに、外の騒ぎに気付いた天照大御神は天の石戸を少し開き外の様子を覗いた。

 天照大御神は、八尺鏡に写ったのが自分だとは知らずに岩戸の間から身を乗り出した。
 そのとき隠れていた田力男
(たぢからお)が天照大御神を引っ張り出した。
 太陽の神である天照大御神が世に出たのである。

 こうして世界は再び明るくなった。
 そして須佐之男命は高天が原から追放されたのである。


 *解説2
 お隠れになるというのは神が亡くなったことを意味している。
再び天照大御神が世に出たというのは次の神が定まったことを意味している。
 大胆に言い換えれば、卑弥呼が亡くなり、その宗女イヨに世代交代があったと考えられる。

 *解説3
天の安河とともに、北九州地方と考えられる。
 
 *解説4
出雲地方と考えられる。根の国は島根と推定。

 *解説5
人が亡くなったとき、その霊を慰めるために踊ることは事例が多い。
盆踊りがその代表である。

(八俣の大蛇-草薙の太刀→伊勢神宮→熱田神宮)
 高天原から出雲の国に降りた須佐之男命は、かの有名な八俣の大蛇を退治するのである。
 このとき大蛇の尾から出て来た「草薙の太刀」を天照大御神に献上した。
 そしてそのときに助けた稲田姫と結婚した。


 「草薙の太刀」を天照大御神に献上した事例から、天照大御神を高天原勢力、須佐之男命を出雲勢力とすると、高天原が出雲を支配下においたと考えられる。

 須佐之男命は現在では出雲大社、八坂神社、氷川神社、八雲社、祇園社等、
数多くの神社に祭られている。八は須佐之男命のキーワードでもある。


 須佐之男命の子孫としては、大国主神、ニギハヤヒが有名である。
 特に大国主神は因幡の素兎伝説として知られている。
 国譲りの神、大国主神は出雲大社に奉られ、5つの名前を持ち、全国各地に逸話が残されている。


 天照からの系図は以下のとおりである。

 天照大御神- 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
妻は万幡豊秋津師比売命
(よろずはたとよあきづしひめ、高御産巣日神の子供)
邇邇芸命
(ににぎ)-海佐知-山佐知-神武天皇

 一方、天照大御神と須佐之男命が夫婦であったという説もあり、古事記を解釈するには面白い考え方である。

3、国家統一の歴史

(神武天皇)
 ここに初めてカムヤマトイワレヒコノミコト、すなわち初代天皇神武が登場する。
 カムは神、ヤマトイワレは大和の
イワレという場所である。
 イワレという地名が初代天皇につけられている。
 イワレの場所は現在の桜井市付近にあり、古代王朝にとっては重要な場所である。
 神武天皇は橿原神宮に祭られている。

 また天照大神は、伊勢神宮に天皇家の先祖として祭られている。

 このため、天皇一族が結婚される場合、必ず、その報告を橿原神宮、伊勢神宮にされる訳である。
 しかし、どういう訳か神武天皇の父であるウガヤフキアエズ、母である玉依姫、
また天照の父母である伊耶那岐、伊耶那美は冷遇されている。
 初代天皇が奉られるのは理解できるが、皇祖として天照のみがもてはやされるのは理解しがたい。


(八咫烏→神武天皇の道案内→畝傍かしはらの宮)
 神武天皇が九州から和歌山に到着し、畿内大和に入る。いわゆる神武東征である。
 ここで神武天皇を畝傍橿原の宮まで道案内したのが八咫烏である。
 奈良の地酒に八咫烏という名前の酒があるが、2日酔いどころか3日酔いする酒でもある。


(神武説話)
 神武説話は「壬申の乱」以降、天武天皇の意志により創作されたものであるが、
それまでに天皇家、大王家の祖先(始祖王)が北九州から東征(九州から見れば畿内は東)したという伝承が既に存在していた。
 その為、神武東征神話が創作されたのである。

 天皇の祖先は、朝鮮から渡来した騎馬民族が北九州で勢力を蓄え、東征したという説が一般的である。

(邪馬台国)
 「魏志倭人伝」によると3世紀ごろ卑弥呼(*解説6)、その宗女イヨ(トヨともいう)による女王連合国「邪馬台国」の存在が認められている。
 中国では、三国時代の英雄、諸葛孔明が活躍した時代(181年~234年)である。
 「邪馬台国」については数え切れないほどの説があるが、いちばんよく議論されるのは、
「邪馬台国」が畿内であったか、九州にあったかという点でありる。


 ところが、中国の文献では、4世紀から5世紀までの100年間(西暦266年~413年)、倭の記事が無くなっている。
 この4世紀は謎の世紀と呼ばれ、不透明な時代といわれている。
 この間の100年間に内乱が起こり、「邪馬台国」が崩壊したと考えられる。

 このころ、南朝鮮から渡来してきた集団によって、九州に日向王朝が成立した。
 この日向王朝が勢力を伸ばし、瀬戸内海水路を通り、畿内に移っていく。 
 畿内といっても、大和ではなく難波、河内である。河内王朝という。


 *解説6
 ヒミコ→ヒノミコ→日の神子→天照と考える。

(三輪王朝)
 河内に移動した日向王朝が、周辺に勢力を拡げ始めた4世紀後半から5世紀初めまでに、大和にも有力な部族国家が形成されていた。
 この国家が三輪王朝である。

 日本書紀によればハツクニシラススメラミコト、すなわち第10代崇神天皇が治める部族国家である。
 字のごとく初めて国を知らしめた天皇ということである。
 事実上の初代天皇である。

 後でも述べるが、神武天皇以下、九代開化天皇まで実在はしない。

 崇神天皇のもう1つのイミナミマキイリヒコがある。
 ミマは任那(みまな)と考えられキは城であり、イリは住むという意味である。
 すなわち、任那の城に居住した天皇という意味である。
 イリ王朝ともいう。

 このことからも崇神天皇は任那、すなわち、朝鮮半島からやって来た第1段の外来民族と考えられる。

(神と名のつく天皇)
 また天皇で神という名前がつくのは、(初代)神武、(10代)崇神、(15代)応神天皇と、
3人だけで、もう1人つけ加えれば、(応神天皇の母)神功皇后で、合わせて4人だけである。

 神という名前がつくのは、建国者、征服者を表す偉大な人物、天皇のみである。

 神武、崇神、応神天皇、及び神功皇后は、ある意味で同一人物と考えてよい。
 4人のうち、実在する人物は、崇神天皇のみである。

 特に神武天皇と神功皇后の伝説はよく似ており、その内容は日本各地を征服する話である。
 また、神功皇后の伝説は、卑弥呼、推古天皇、持統天皇をモデルにしてある。

4、大和の地域

(大和、葛城、吉野、宇陀)
 さて、日本の中心地、大和政権があった、大和であるが、当時の奈良県は、大きく4つの地方に分けられる。
 奈良県北部の大和と葛城、奈良県南部の吉野と宇陀である。


(奈良県北部)
 奈良県北部にある大和川流域の平野部、すなわち奈良盆地を東西に分けると、大和と葛城になる。
(大和)
 大和というのは奈良盆地の東、現在の天理市、桜井市、磯城郡田原本町の所で、天理市には大和神社(おやまと)という所が今でもある。
 もちろん大和川は、大和に流れる川である。
(葛城)
 また、葛城というのは葛城族の地、奈良盆地の西、葛城山の麓、現在の当麻町、御所市のある所である。

(奈良県南部)
(吉野)
 吉野は南朝の舞台、吉野神宮のある所、奈良県の中央部、紀ノ川流域の上流であり、奈良県では吉野川と呼んでいる流域の所である。
 大和、葛城の平野部に比べ山地である。

(宇陀)
 宇陀は奈良県の東部山岳部で、木津川流域の上流である宇陀川の流域の所でる。
 神武天皇の東征の地は大和であり、「古事記」「日本書紀」にも宇陀、吉野の地に東征している事が書かれている。
 現在の奈良県でもこの4つの地域は大きく変化していない。

5、三輪王朝から応仁仁徳王朝そして蘇我王朝へ

(三輪王朝)
 さて当時の大和であるが、大和といっても奈良県全域ではなく一部分であり、
この大和の一部分である三輪山の山麓地方一帯を基盤にして成立していたのが、
初期大和国家、崇神(10代)、垂仁(11代)、景行(12代)天皇による三輪王朝である。


 桜井市に大神と書いて、オオミワと読む神社が今もある。
 三輪神社の神は
オオモノヌシ、つまりスサノオの子供ニギハヤヒであり、
ヤマトトトヒモモソヒメ(*解説7)に憑りついたとして有名である。
 三輪王朝はこのあたり一帯を治めていた。


 *解説7
 第7代孝霊天皇の娘、倭迹迹日百襲姫は卑弥呼であるという説がある。
 その墓は箸墓古墳で日本の古墳のモデル、シンボルとなっている。
 周辺で、最近発掘調査がなされており、古代大和の謎が解明されつつある。

(太陽の道)
 この三輪山と西のほうにある二上山(奈良県と大阪府との境界、大津皇子の墓で有名)を結ぶ東西線(北緯34度32分)は”太陽の道”と呼ばれている。
 大和の地からみれば、東にある三輪山から生命の象徴である太陽が昇り、
そして、太陽が大和の国を照らした後、西方浄土(よみのくに)があると考えられていた二上山の向こうに、太陽が沈む。

 また、太陽の道の東延長上には、伊勢神宮、西延長上には、淡路島の伊勢の森がある。
 当時の世の中は大和が中心であった。

(日向王朝)
 5世紀半ば~後半になって、河内に勢力を蓄えていた日向王朝(第2段外来民族王朝で河内王朝、又は応神、仁徳王朝ともいわれている)が三輪王朝に代わり王権の交替となったようである。
 この王朝は15代応神、16代仁徳、21代雄略と続く応神、仁徳王朝でありるが、三輪王朝とは血縁関係はない。

(天皇家の系列)
 「古事記」「日本書紀」には天皇家は系列化されている。
 これは後の天武天皇の意志により天皇家を1つの系列にするため、創作されたためである。


 すなわち、応神、仁徳天皇(同一人物と考えて良い)の母、神功皇后を登場させ、その父日本武尊を英雄化させている。
 当然、神功皇后、日本武尊、日本武尊の父である12代景行天皇は実在しない。

 21代雄略天皇はその実在が以前不明であったが、埼玉県稲荷山鉄剣の発見により、その存在が確実となった。

 このころ応神、仁徳王朝で、いちばん偉大な天皇であった雄略、そのイミナ、ワカタケル天皇時代の6世紀に国家が統一されたと考えられる
(埼玉県稲荷山で、ワカタケルの名の入った鉄剣の発見されたことにより、その勢力範囲は関東から九州までと考えられる)。

 しかしこの王朝の最後の天皇、武烈天皇(第25代-字のごとく気性が激しく、悪政を強いた)が亡くなり、応神、仁徳王朝は崩壊した。

(継体天皇)
 この後、天皇家は継体天皇(第26代)によって字のごとく継承されたようになっている。
 この天皇は越前の豪族が、近江、尾張一体を固めながら大和に入り、王位についたと考えられる。もちろん応神、仁徳王朝との血縁関係はない。

(蘇我氏)
 この後、継体天皇の系列と続く訳であるが、豪族である蘇我氏が(大伴氏を退け)勢力を伸ばし
、蘇我氏の推す欽明(29代)、敏達(30代)、推古(33代)が天皇となり、国家が、更に統一された。


 飛鳥に都を置いたのは、飛鳥周辺部に朝廷を構成する豪族の本拠地があったためと
、当時の知識集団、技術集団である朝鮮半島からの渡来人を配下に従え、
新しい宗教である仏教を積極的に取り入れ、勢力を蓄えていった蘇我氏(葛城氏を支配)の支配する飛鳥地方が、政略的に都とされるようになったためと思われる。

 天皇は欽明(29代)、敏達(30代)、用明(31代)、推古(33代)、舒明(34代)と続いたが、この頃天皇家の主導権をもっていたは蘇我氏であった。

(激動の時代)
 しかし、やがて蘇我氏が主導権を取っていた飛鳥に、激動の時代がやってくる。すなわち、乙巳(きのとみ)の変と、壬申の乱である。
(乙巳(きのとみ)の変)
 乙巳(きのとみ)の変、つまり大化の改新(西暦645年)、中大兄皇子、中臣鎌足等により、馬子、蝦夷、入鹿と続いた蘇我氏が滅ぼされた。
 そして、皇極(35代)、斉明天皇(37代皇極重祚)の時代となり、実際は政権を中大兄皇子(38代天智)が行っていたが、

(壬申の乱)
 その後、大友皇子(天智天皇の子供)と大海皇子(天智天皇の弟)(*解説8)の戦い、
すなわち、壬申の乱(西暦672年)を経て、大海皇子、名を改め天武(40代)、
その皇后(天智天皇の子供、
ウノサララ)持統天皇(41代)に至り、
大豪族の支配する時代から、天皇中心の中央集権国家体制へ移って行きた。

 天皇すなわちスメラミコトという名称が用いられ始められるのは推古天皇以降と考えられ、
それ以前は、諸豪族の連合の長として、天皇は大王(おおきみ)と呼ばれていた。


 *解説8
 天智天皇、天武天皇兄弟については、天武が年上、また他人説がある。

(狂心の渠)
 天智天皇の時代、朝鮮半島では新羅が百済を滅ぼす。
 百済と友好関係を結んでいる日本は、新羅軍の攻撃に対する防衛策として、
都を飛鳥から大津へ遷都している。また斉明天皇は狂心(たぶれごころ)の渠を造ったということが日本書紀に書かれている。


 「狂心の渠」とは香久山と石上山の間に造った渠で、造った目的がはっきりしなく、
斉明天皇がつぎつぎと国民の負担を顧みず、大土木事業を行った訳であるが、
一説によれば、水は低いところから、高いところに流れないことから「狂心の渠」と呼ばれている。

 最近の文化財発掘作業により、酒船石の近くで、日本書記に載っている「狂心の渠」と思われる水路が発見され話題になった。

 奈良県は文化財の宝庫で、特に明日香村の地には重要な遺跡が出て来る。

 発見される遺跡は、当時最新の都市計画の産物である。

(飛鳥から藤原京、平城京へ)
 やがて、西暦694年、持統天皇の時、飛鳥の宮から、藤原京に、西暦710年元明天皇時代に平城京へと、都を北へ北へと遷都していく。

第3章 古代史の終焉

1、当時の都と都市計画
  人口→大和・明日香の交通→位置→上水・下水

(都のあった理由)
 飛鳥の宮(有名なのは、豊浦宮、小墾田宮、板蓋宮、浄御原宮等、その他いろいろあるが)、
藤原京、平城京と大和に都があった期間は約500年(4世紀~8世紀、三輪王朝350年~平安遷都794年)である。

 大和の地に都があった理由は何か、それを考えてみよう。

(住みやすいところ)
 都は国の政治の中心地であるので人が集まってくる。そのためには人間が住みやすい所でなければならない。
 大和の地は山で囲まれた盆地であり、台風があまり来ない。また来たとしても被害はそれほど大きくない。
 それから水が良いということも大切である。

(交通の便利な所)
 人が住みやすい所の外に、交通が便利であるということも大切である。
 大和はほぼ日本の中心であり、地方から都に集まるには便利な所である。
 遠い所であれば、租税を集めるのに苦労する。

 また大和には周辺の山々からたくさんの川が流れていたため、物資を運ぶために利用された。
 空から、大和川、並びにその支流を見れば、かなり蛇行している。蛇行していれば、川の流れが緩く、川を利用しやすいわけである。
 当時の輸送方法としては、陸上輸送よりも船による輸送の方がはるかに能率が良かったわけである。

(都の規模)
 では飛鳥~平城京時代の都にはどのくらいの人口であったか。
 いろいろな説があるが、平城京の人口は約20万人と推定されている。
 20万人の都市というと、ずいぶん小さな都市だと考えられが、奈良時代の全日本の人口は約500万人程度である。
 現在の奈良市の人口は40万人、日本の人口は約1億2000万人である。

 これと比べれば、非常な過密した状態の都市であった訳である。

 当然、これだけの人口を収容する都であるから、都市計画が必要となる。
 唐の長安をまねて、碁盤の目のような都の都市計画が既になされていたことは周知のとおりである。
 また、飛鳥時代の都の人口は約5万人程度と推定されている。
 現在の明日香村の人口は7000人である。当時は現在よりもかなり密集した状態であった。


2、平安京へ、そして今

 これまでに述べてきた敷島の大和、すなわち三輪、明日香、藤原、平城と都があった地が大和盆地である。
 この盆地の中央部に流れる川が大和川であり、大阪湾へ流れている。
 西暦794年、都が大和の地から、京都平安に移って以来、古(いにしえ)の都となって忘れ去られていった訳であるが、
近年、奈良盆地が京阪神の大都市圏に近いことから、著しい人口の増加により、急激に都市化が進んでいる。
 このため排水される汚水は、ほとんど大和川に流れ込み、この結果、河川の水質が悪化が著しく、毎年全国河川ワースト2という不名誉な記録を更新しており、深刻な問題となっている。


(平城→平安遷都の理由)
 飛鳥から藤原京、平城京、そして大和の地を離れ、京都平安京へと遷都していった。
 その最大の理由は、大化の改新、以降の律令体制の完成によって、政治の規模が大きくなり、飛鳥の地では狭くなったことである。

 そこで持統天皇の時代に、飛鳥の地から藤原京に移っていった。
 人口の増加に対応するためと、さらに交通の便利な地を求めて、飛鳥から平城京、平安京と都が移って行った。
 当時の都市計画施設として、既に上水、下水が整備されている。
 しかし、人口の急激な増加により上水、下水の整備が間に合わなかったことも遷都の大きな理由である。

 (当時の平城京時代の末期では、下水の処理がおいつかず、臭気が蔓延していたようである。)

 以上が古代大和歴史発祥から平安京遷都まで、歴史の表舞台から、桧舞台から幕を閉じるまでの概略を述べた。
 今後は埋もれていた古代を呼び起こし、かつての在り日の桧舞台を再現してみよう。


 *参考-主な天皇家系図

(代 漢風諡号  いみな、その他 )

 Ⅰ アマテラス
 Ⅱ オシホミミ
 Ⅲ ニニギ
 Ⅳ ホホデミ
 Ⅴ ウガヤフキアエズ

初代 神武天皇 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこ)
 (西暦200-250年 親魏倭王-卑弥呼)
7 孝霊天皇 →ヤマトトトソモモソヒメ

10 崇神天皇  (みなきいりひこいにえ)(はつくにしらすすめらみこと)
  三輪王朝始まる 大和支配→天理市~桜井市

11 垂仁( いりひこ)
12 景行 (おしろわけ)
13 成務 (わかたらしひこ)
14 仲哀 →日本武尊 草薙剣と袋を持って東国征伐
 神功皇后→持統天皇モデル 応神、仁徳王朝(日向王朝)を正当化するため架空の人物

15 応神( ほんだわけ)
16 仁徳 (おおさざき)
21 雄略 (わかたける) 倭王武
 稲荷山鉄剣が発見され雄略天皇の存在が確認された
25 武烈
 雄略天皇系、日向王朝絶える


38 天智 中大兄
40 天武 大海


(おわり)

*参考文献:沢山あって思い出せません。

 間違いが沢山あると思いますが、禅士の独り言ですので、ご了承ください。